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メモ帳

某社会科教員です

4月も終わる

4月も終わる。早い。これまでの年度よりは、少しは前向きに時間を使えているけれど、相変わらず学校が始まると時間がとれない。

世の中のニュースも、ミサイルのリスクが喧伝され、いやな事件も減らないし、いいニュースもあるんだろうけど記憶に残らない。

大学教員の定員削減の話を耳にした。2割削減とか、もっと削減とか。単なる可能性の話ではなく、現実的な話のようで、なかなかに落ち込む。自分は大学教員ではないけれど、大学で学んできた所属先が、その存続さえ危ういとなると、他人事で済ませられない。

大学教員を削減するというときに、理系と文系が平等に同じ割合で削減することはないと思う。理系の方が、世の中に役に立つと思われているし、少なくとも研究予算をたくさんとってこれるので、大学に対しても理系の方が役に立つわけだ。

文系は、なんとかその存在意義を示さなければならないところだけど、なかなか難しいのかもしれない。よく、文科系の学問分野がしっかりしているということは、その国の状況が豊かであることを示す、と聞いていたけれど、要するにこの国は余裕がないわけで、真っ先に切るべきはどうしても文科系になってしまう。

人気が集まるような、おもしろ話ができる人材を育てればよいのか。理系に役立つような創意工夫をすればよいのか。そんなことしなくても、きちんと自分たちの学問分野の内容を説明すれば、その重要性が理系の学問分野と同等だと理解されて、問題は片付くのか。

授業で、哲学について紹介すると、興味をもって積極的に受けてくれる子も少なくないが、半分くらいの子は、へりくつばかり言っていて存在意義のよくわからない学問分野だという感想を漏らす。これでは、私は少なくとも哲学系の学問分野に対して、負の貢献をしてしまっている。

学生たちと対話を続けて、また過去の哲学者たちの知恵としっかり向き合って、少しでも学生に魅力的な授業を行うことが、私のすべきささやかな貢献なのかと思う。ただ、一番望むのは、これさえ教えれば哲学の魅力が全部伝わるというガイドブックなんだけど、そんなこと考えている時点で、哲学とはほんとは縁が無い人間なのかな、とも思う。

ハッキング『何が社会的に構成されるのか』を読み終わりました

読み終わったのでメモ。

 

抄訳だけど、省かれたのは各論の部分で、これは興味を持ったら原著を読めばよいという感じ。とても読む気はしない。英語は難しそう。

第1章は前に書いたような、社会的構成を扱う上での注意や基本概念の概論。新たな分類により、分類された人が影響を受けるし、その分類によって社会制度も変革されるし、同時に分類それ自体も新たに影響をうける。新たな分類を生み出すような社会状況を「マトリックス」と呼びねそのマトリックスの中で、「分類」と「分類されるもの」の相互作用がある、などなど。すっきりしていて面白かった。

第2章は「多すぎるメタファー」。

構成主義の源流としてカントを引き合いに出し、その他、ラッセル・カルナップ・クーン・グッドマン・ブラウワーという、構成を問題にする哲学者たちの考えと相違を取り扱っている。ハッキングが、ギャリソンという人の言として、クーンとカルナップは共通点が多く、お互いにそれを意識していた、というのが興味深かった。哲学史に疎くて、カルナップとクーンは別の時代の人ってイメージがあったので。

第3章は「自然科学はどうなのか」。

 まず、ピカリング『クォークを構成する』が取り上げられる。ピカリングは、クォークそれ自身を構成物と考えているのではなく、その観念が構成されたと見なしている。そして、クォークという観念の出現は不可避ではなく、加速器を必要としない想像上の科学を考えることは可能である、つまり、実験機器は「古い物理学」のまま「成功している」ような、「新しい物理学」のオルタナティブは存在しうる、という主張。なお、「成功」が意味するのは、ラカトシュが提起するような前進的なプログラムをとりあえずは意味する。

 その後、構成主義者とそのアンチとの論争点を「偶然性」「唯名論」「安定性の説明」という3つの点から説明する。おもしろかった指摘としては、ポパーやクーンの研究は、科学史的に例外的な時期の産物であり、物理学の一大変革の時期に研究してたから、科学を基本的に不安定だと考えてしまったのかも、という指摘。もう物理学の大変革は起こらないのだろうか。起こって欲しいような。

第4章は「狂気―生物学的かあるいは構成されるのか」。

 パトナムの引用がまず印象的だった。言語や生活様式の発展に伴い、私たちは実在についての考えを絶えず改訂していくし、そうせざるをえない、という内容だったと思う。やっぱり、固定的で永久不変の何かを探究するというより、常に変化の可能性を受容しつつ、その都度の信頼できる道具立てでそのときの最善の帰結を得ようという態度が好きだ。

 ADHDや精神薄弱、統合失調症、小児自閉症といった概念の歴史をたどり、その概念が変遷してきた過程を追うのは面白かった。「ループ効果」という概念も興味深かったので、覚えておこう。自分がある仕方で分類されていることに自覚的であることで、行動を変えて、その分類にあたる人間にあてはまるはずの事柄が偽になってしまうということ。

 また、病気や障害について、病因となる遺伝子を特定して固定指示子を用いることの問題点を示しているという、マルガリートの論文とやらは、読んでみたい。生きているうちに。最後に、ハッキングが、意味論は自然言語の正しい記述じゃなくて、目的に応じて自然言語を人為的に解釈する仕方だ、という言い方は、実質的に意味するところをうまく捉えられてはいないのだけど、おもしろそう。

第5章は「種類の制作―児童虐待の場合」。

 SRAというのを初めて知った。そんなこともあったのですね。グッドマンの世界制作なんたらというのは、あまり興味がなかったけれど、ほんのちょっぴり興味が出てきた。生きているうちにやる気になったら読んでみよう。

 まあそれなりに面白い読書体験だった。ハッキングの精神病理に関する研究は、もう少しきちんと追ってみたいかな。それ関係だと、あとレイチェル・クーパーか。

 

フィクションを信じること

映画や小説にはまると、そこに描かれているフィクションの世界を信じたくなる。フィクションの世界の方が平和で幸福そうなものだと、そうした傾向は強くなる。けれど、完全にフィクションの世界に生きることはできない。現実の要請から逃れることはできないからだ。

フィクションの中に生きようとする姿勢は「現実逃避」と非難されたりする。では、現実の中にフィクションが紛れ込んでいて、もしも私たちはそのフィクションを集団で信じ込んでいたとしたら、どうだろうか。そのフィクションをすべて放棄しなければならないだろうか。

時代的な背景はあまりよく知らないが、「社会的構成 social construction」という概念が、一時期非常にもてはやされていたようだ。乱暴に言えば、私たちがその存在を信じ込んでいるものの中には、偶然の産物に過ぎないものがある、すなわち、私たちはフィクションの実在を信じ込んでいる、という考えだ。今、イアン・ハッキングの『何が社会的に構成されるのか』を読んでいて、ようやく第1章を読み終わったが、いくつか興味深い記述があったので、備忘録代わりにメモしておきたい。

まず、ハッキングは、社会的構成というアイディアが、人々を呪縛から解き放つ効果を持っていたとしている。代表例は間違いなくジェンダーであろう。女性らしく振る舞わなければならないと疑いなく信じられていたものについて、それは社会的な要請に他ならず、あくまで偶然的に生み出された要請であることを暴露することで、もはやそれを遵守する必要性はない、と思わせる。

「Xが社会的構成物である」という主張の背景には、以下のような見解が存在する。

(1)Xのこれまでの存在、あるいは現在のあり方には必然性がなく、それゆえこの存在を認めること、あるいは現在のあり方を回避することができる。

この見解が社会的構成論者の共通見解だと言える。ただし、この見解からは、単に、Xが不可避であることを否定しているだけであり、それ以上のことはない。実際には、社会的構成論者は、以下の(2)、(3)まで進む人が多い。

(2)Xの今日のあり方はひどい状況だ。

(3)Xが完全になくなるか、あり方を根本的に改められれば、私たちの生活ははるかによいものになる。

ここでいう「私たち」が誰かによって、話は大きく変わるだろうし、場合によってはこの「私たち」自体が「社会的に構成された」観念として新たに告発されるのかもしれない。こうした点も個人的には気になるところだが、本書を読んでいておもしろかったのは、こうした社会的に構成されたとされる観念を生み出す背景に注目していることだ。ハッキングは、この背景を「マトリックス」と呼んでいる。たとえば、「女性難民」とう事例を取り上げて、彼はマトリックスを以下のように説明している。

「女性難民という観念がその中で形作られたマトリックスとは、さまざまな社会機関、論客、新聞記事、弁護士、裁判所の判断、入国審査の手続きといったものからなる一種の複合物である。さらに、このマトリックスには、侵入を阻む障壁、パスポート、入国審査官らの制服、空港の入国審査カウンター、不法入国者仮収容所、裁判所の建物、難民の子どもたちのための野外活動施設といった、入国管理システムを支える、いわば物質期的な下部構造も含まれる。これらの物質的な下部構造もまた社会的である」(p. 24)

このマトリックスの中で、「女性難民」という観念が生み出され、そしてその「女性難民」というカテゴリーに属する個々人という対象が生み出される。観念としての「女性難民」は、対象としての個々人の自己認識、経験、行動を変える。自分が女性難民だと信じることで、女性難民として世界の出来事や自分の置かれた状況を理解し、女性難民としていかに行動すべきかを考える。ここで対象とされる個々人は、「女性難民」を作り上げるマトリックスの中で、さまざまな諸制度、手続き、施設に関与し、その関与の仕方は時に、マトリックスの構造を変容させる。たとえば彼女らが立ち上がり、声を上げ、それが取りざたされることで、彼女らの扱いは変わり、諸制度は改定されるかもしれない。そのときには、「女性難民」という分類法は変容されるだろう。このようにして、観念と対象がマトリックスの中で相互作用している。

以上の点については、納得できることも多いし、このような指摘が重要なものであるだろう。ただ、やはり気になるのは、社会的構成がどこまで当てはまるのか、という点だ。実は、本書の第3章では、自然科学について検討される。果たして、自然科学における発見は、あるいはもっと端的に「電子」や「クォーク」、あるいは「種」などは、社会的に構成されたものなのか。最近は、精神病について取りざたされることが多く、発達障害が問題になっているが、ではこれは社会的に構成されているものなのか。あるいは道徳は?

「社会的構成」ということが何をしているのかについて、反省的に検討することで、その営みを理解しつつ、この威力と限界を見定めながら実際に適用してみることが大切だとは思う。

ということで、続きも少しずつ読み進めていければいいが、第1章を読み終わるのに1ヶ月かかったので、第5章まで読み終わるには、かなり時間がかかりそうだ。

気分転換

借金のようにやるべきことが積み重なっている。これはよくない。

今日は授業準備と採点に追われて1日が終わる。気晴らしにと、片目で錦織の結果を見ていたが、惜しくも敗退。これは悔しい。

あまりに悔しくなって、作業が進まなくなってしまい、教えてもらった仙厓義梵の絵を眺める。江戸時代に、このような絵を描く禅僧がいたことにほっこりする。

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もうなんていうか、かわいい。左側の子どもらしきもののおしりの具合がたまらない。心が落ち着かなくなったら、しばらくこの絵を眺めることにしよう。

責任をとる

将棋界では、三浦九段がスマホで不正を行っていた、という疑惑が持ち上がり、しばらく大変な騒ぎになっていた。最終的な調査結果としては、三浦九段が不正を行ったことを示す証拠は見つからず、しかも疑惑を指摘する根拠の1つだったはずの長時間の離席もなかったという、端から見ると信じられない結果も示された。

日本将棋連盟の谷川会長が辞任を発表したが、彼が辞任することで将棋連盟は責任をとることになるのだろうか。もちろん、一般論として、組織の中に問題が生じれば、まず責任を問われるのは組織のトップである。ただ、組織のトップは、自らの責任を辞任という形で取るよりは、批判を受けながら組織をただすことの方が、責任を取ることになるのではないだろうか。もちろん、ある権力に居座ることが、その人にとって多大な利益を生んでいる場合に、辞めずにいることは批判を生むだろうが、今回がそうしたケースに当たるように思えない。少なくとも、今回の件で確証も得られていないままに、私の感覚ではとてもひどい言葉をもって三浦九段を非難していた棋士もいたが、将棋連盟としてこうした反応に対しても厳しい態度をとることは、三浦九段、将棋連盟の信頼だけでなく、そうした軽率な棋士を結局のところは守ることになるのではないだろうか。私は、今回の騒動については、そうした厳しい対応というけりをつけるまでが、谷川会長の仕事だと思う。ただ、心労もひどいようで、気の毒ではあるけれど。

別の観点の話になるが、ある疑念が生じたら、そのバイアスですべてのことを判断してしまうのは、人の避けがたい傾向性だと思う。しかし、そのバイアスを自覚することで、こうした事態は避けなければならないだろう。ソフトの手と三浦九段の手の一致率が非常に高いという指摘を見て、そういうものかと思っていたが、もっと一致率が高い棋士もいるとのことで、これもいかに思い込みで判断しているかの一例だ。数字が出されると、そこで提示された解釈まで疑いなく正しいと思ってしまう傾向性が、今回の事態を大きくしてしまった一因だと思う。少なくとも、他の棋士との比較検討のもとに判断をするという当たり前のことが、きちんとなされずに判断が下されていったことは残念だし、教訓としなければならない。また、こうした思い込みの誤りに陥らないように、適度に疑い、適度に慎重な態度を涵養することはとても大切なことだと思った。

先日、最年少棋士が最年長棋士に勝利したというニュースが出て、二人とも味があり、ほっこりした。将棋界もこれからまた、新たな時代となると思う。私は将棋界と何一つ関係がないけれど、なんかいい感じになればいいな。

新世代のゲーム機

ゲームは好きだが、やる暇がとれない。そう言っているうちに、新たなゲーム機が次々と発売されている。完全に取り残されており、別に困ってはいないが、今現在置かれている環境が、割とゲーム好きに囲まれていることもあって、新たなゲーム機には割と関心を持っている。

Nintendo Switchは、任天堂が新たに発売を決定したゲーム機である。据え置き機としても遊べるし、携帯できるというのが魅力なのかと思っていた。ところが、発表会の映像を少し見てみると、むしろ重要なのは、コントローラーの方だった。コントローラーに内蔵されたカメラで動きや距離なども読み取る。また、振動もより繊細に伝わるようで、映像では、グラスの氷がぶつかる感覚などが再現できると紹介されていた。前に、バッティングセンターに行かなくても、ゲームでほとんど実現されればいいのに、と思っていたが、そうなる日はもう来ているようだ。

PS4では、VRが実現されると言うし、ゲームの体験は、今年新たな段階に入るのだと感じる。欲しい…。以前より、DQの新作とKHの新作が両方とも発売され、それが同じハードなら、ハードごと買おうと考えていたが、待ってられないかもしれない。

そのうち、「マトリックス」なんてゲームが発売されて、現実が何かが分からなくなってしまうマトリックスシンドロームなんてのが出てきたりするかも。暗い現実よりは、ゲームの中の明るいフィクションの方が居心地はいいだろうし。

そういえば、マトリックスでは、ネオたちを裏切るサイファー(だったっけ?)は悪者扱いだったが、裏切りは抜きにして、現実を知るより仮想現実に生きる方を選ぶこと自体は、果たして悪いことだったのか。前に紹介した永井均が言うところの「邪悪なる真実」には目を伏せて、優しい嘘を選ぶことを誰が非難できるだろうか。

ゲームの未来は、私たちの生き方自体を変えてしまうなんてことは、さすがに期待しすぎだろうか。とりあえず、新しいゲーム機を体験してから考えることにしたい。

歴史は役に立つか

歴史を教えるときには、歴史を知ることの意義についても話す。私は、グローバル化の中で、自分を守るために知識を持つことが必要だ、とか、他者理解の道具であるとかいったことを強調する。そうすると、必然的に現代史が中心となる。現代史は、現在の利害とも密接に関係するがゆえに、教えることが難しい時代でもある。史料的には古代よりも圧倒的に大量にあるのに、歴史認識の問題は比較にならないほど深刻である。

小田中直樹歴史学ってなんだ?』(PHP研究所、2004)は、歴史認識の問題を含めて、歴史学が突き当たる問題について、平易に解説し、具体的な事例を通して、歴史学がどのような学問で、歴史学が社会の役に立つかを考える、という内容だ。結論として、歴史学は、史料批判を通じて、(コミュニケーショナルに)正しい認識にいたり、より正しい解釈をえることが、歴史学の基本的な営みであり、コミュニケーション改善のツールであったり、アクチュアルな問題意識に即した教訓になる歴史像を提示することで、人の日常に役立つ「コモン・センス(教養)」を提供する点に、歴史学の意義を見いだしている。単純な知識不足のために、個別に取り上げられる事例など、個々に勉強になった。

ただし、小田中が主張の根拠とする諸見解の取り扱いは、私には少し曖昧でわかりづらかった。たとえば、ソシュールによって史実の正しさに到達することはできない、というのはよくわからなかった。意味するものと意味されるものの関係が恣意的である、ということから、言葉を介する限り正しく解釈することは不可能だ、という主張に、どうやったらつながるのか。

こうした点はよくわからなかったが、小田中が最終的には、認識の正しさについて意見を交わし、議論をして、一致点を見いだせるかもしれないことに希望を見いだし、「コミュニケーショナルに正しい認識」は存在する、という主張をしているのは、理解できた。私の理解では、歴史家のコミュニティー内で、史料の読み方、正しさの基準は共有されるはずで(共有されなかったら同じ学問領野として成立していない)、そこで訓練を受けた歴史家たちがコミュニケーションを重ねることで「正しい認識」を提示し、それをもとにすることで、「より正しい解釈」に至ることができるはず、という主張だ。私の理解が正しければ、その限りで歴史学者による解釈は、素人の解釈よりも「権威」があり、政治問題で歴史認識が問題になった際に、依拠される「専門家の見解」となりうる。

こうした小田中の主張の背後には、歴史認識の問題について、真理性や客観性の重要性を否定する立場の存在がある。従軍慰安婦の問題が事例に挙げられているが、そこでは、国民の歴史は「物語」であるとか、史料の客観性は重要じゃなくて当事者の語りの「リアリティ」を重視すべき、という立場の論客が紹介されていた。オーラルヒストリーの重要性が全くない、ということはないし、小田中もそんなことは全く主張していない。ただ、史料批判の重要性を強調し、より正しい認識・解釈に至る努力を重視すべきだと述べており、ここは小田中の言うとおりだと思う。

哲学では、歴史の物語性について、野家啓一の研究があったはず。社会学では、集合的記憶といった概念がある(はず、たしか)。これらの研究を真剣に検討したことはないが、やはり客観性・真理性の問題を度外視して、こうした立場を主張すると、何でもありになってしまうのではないだろうか。

個人的には、この本の中で示された、20世紀の歴史の見方( 「連合国vs枢軸国」→「民主主義vsファシズム」→「民主主義vs全体主義ファシズム社会主義)」→「総力戦体制」 )や、安丸良夫による、日本で「倹約」「謙譲」が規範としての道徳になったからくりについての分析の紹介は、おもしろくて勉強になった。安丸は、これらが道徳となり、それ自体が目的・価値となるが、その結果として富や幸福がえられるために、成功者を道徳者と同一視し、成功していない人は道徳を身につけていないからだ、とする発想が生まれた、ということを述べているらしく、非常に興味深い。安丸の言葉か、小田中の言葉かがわからないが、「道徳のワナにかかって支配秩序を安定化させる」という表現は、おもしろい観点だと思った。

最後に、小田中が歴史を「科学」とし、通常科学とのアナロジーから歴史学を見つめようとする視点は興味をもった。科学であるということにどのような意義があり、なぜ科学であることを強調するのか。もちろん、客観性の問題等を踏まえてのことだとは思うが、史料批判を通じた「認識」だけでなく、そこからどう「解釈」するかも科学として見るべき、ということだろうか。その場合、「解釈」というのは、他の科学と比較して、どのような作業になるのだろうか。このあたりをさらにつっこんでくれればな、と個人的に思った。