カズオ・イシグロ『私を離さないで』

 一人称の語りで、幼年時代の回想から始まる。友人たちとの交流や、ちょっとした出来事が静かに語られていく。ごく普通の幼年時代のようで、どこか違和感を覚えるような話が出てくる。状況設定を最初に明確にするのではなく、少しずつ状況がどのようなものかが明らかになってくる。

 家族の不在、「提供者」という言葉、施設の中での隔離された生活、それらが何を意味するのか、不明瞭なままに話は展開される。やがて、状況がとてつもなく残酷なことが分かる。

 あらすじをはじめから知っていれば、違った印象で読んだかもしれないけれど、前提知識なしに、ノーベル賞を受賞した作家の本、ということで読んだ。最初にもしかしたらもう少し設定が明らかにされていたのかもしれないが、ほとんど語られるままに手探りに状況を想像した。なので、この残酷な状況設定に、少なからず戸惑った。穏やかな語り口で、淡々と思い出が語られていくので、余計に戸惑ったのかもしれない。

 話全体はとてもよくできていると思った。幼年時代からのエピソードが、後に有機的につながっていく様子、そして、意味のないように思えるエピソードは、それを語ること自体に意味があると思うし、それを意図的に、計算して書かれたのだと思う。

 感傷的になるのではなく、置かれた状況に対する激しい怒りが表現されているわけでもない。いくつか映像化されているようだけど、おそらく相当に印象の異なる作品になるのではないかと思う。映像化されると、否応なく、現代科学に警鐘を鳴らす、社会問題を提起する作品という印象が強くなるのではないか。少なくとも、小説を読んだ直後の感想としては、残酷な状況に置かれてもなお、希望にすがって、友情や恋愛を求めて生きるという人間の本性を描き出そうとした作品に思えた。いい作品だった。