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メモ帳

某社会科教員です

科学と哲学の関係

須藤靖、伊勢田哲治『科学を語るとはどういうことか』(河出書房新社、2013)を斜め読みした。

内容としては、物理学者の須藤が、科学哲学者の伊勢田に、科学哲学はナンセンスな議論に終始しているのではないか、との疑念をぶつけ、伊勢田ががんばって応答する、というものだった。

読んでいる限りは、私はどちらかといえば、須藤寄りの視点で読んでいたように思う。現代において、哲学が独立して固有の意義を見いだしたり、説得したりすることは難しいのではないかと思った。

伊勢田の発言に、哲学の研究スタイルの分類があるのはおもしろかった。明晰さを重んじる「クリシン型」・読者を考えさせる文章を重視する「思考触発型」・うがったことを言った者が勝ちのルールでゲームをする「うがったもの勝ち型」・そして「文献読解型」。

研究スタイルに大きな相違があったり、そもそも共有する基盤がなかったりするのは、哲学の大きな特徴だと思うし、それゆえに「進歩」というのが見いだしにくい学問分野なのだと思う。そこで、須藤に対して哲学のモチベーションや意義を擁護しようとした伊勢田は、そもそもよくこんなん企画したなと思う。

須藤の発言で興味深かったのは、因果論の話で、「一〇〇点満点など目指さず、七〇~八〇点取れるような「原因」の定義あるいは満たすべき基準を提案するにとどめ、残りは個別に判断(判断しないことも含めて)するのが最も合理的だ」(p. 124)と話していたことだ。非常にプラグマティックだし、少なくとも須藤にとっては、ある言葉、ある概念というのは、別に固定される必要はないし、必要に応じてどんどん修正していけばいいのだろう。普遍的な概念の記述を試み、それに対して反例を探しては、修正を試みるというのは、哲学のスタンダードなやり方だと私は思っているのだが、そうだとすると、須藤の提言は真逆の内容だ。修正を重ねて「洗練」させていこうとするスタイルからすると、反例を挙げては立ち戻るというスタイルは、後ろ向きな探究にしか思えないだろう。プラトン著作を読んでて、ソクラテスの発言にいらつくことあるしな。

世界はどうなっているのか、という問いを言語使用の分析と日常的経験のみに依存するのは困難だ。あくまで哲学という学問領野にとどまりながら、この問いを探求しようとするなら、どこかで自然科学者と手を組まなければならないと思う。あるいは、「深淵な」思想をぶちまけて、「思考触発型」と「うがったもの勝ち」を混在させながら「文献読解型」を進めていくスタイルしかないだろうか。

いろいろと考えさせてくれる面白い本だった。