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メモ帳

某社会科教員です

哲学者へのあこがれ

哲学について、子どもの頃に抱いていたイメージは、「やたらと難しい言葉で難しいことを考える頭のいい人たちの学問」であり、哲学者は何か重要な答えを知っているに違いない、と思っていた。私は死ぬのを尋常じゃなく恐れていたので、死ぬことが怖くなくなる方法を哲学者は知っている、と思っていた。実際はそんなことないですね。

私は哲学マニアではないし、哲学の背景についてほとんど知らないといってよいと思う。ただ、哲学的とされる文章を読むことに楽しみを感じているし、哲学的とされるテーマについて、ああだこうだ言うのも好きだ。専門家とは言えないが、愛好者ぐらいには言えるかもしれない。

哲学研究者=哲学者、ではないという話はよく耳にする。この等式が成立する場合もあるのかもしれない。では、哲学愛好者は哲学者になれるのだろうか。あるいは、そもそも誰もが認める「哲学者」なるものは存在するのだろうか。思い出したのは永井均さんという方である。勝手なイメージだが、従来の哲学「研究」の常識にとらわれず、哲学「する」ことを徹底しよう、というスタンスを表明している感じがしていた。ふと、彼の著書『〈魂〉に対する態度』が気になって、紹介していただいた木田元氏の本数冊と併せて購入した。

まだ最初の方しか読んでいないが、以下のような文章に出会った。「哲学とは、どこまでも徹底的であることによってのみかろうじて意義をもちうる(かもしれない)ような危うい選択なのである」(p. 26)。永井さんにとって、この選択をした「史上初の本格的な哲学者」がニーチェであるらしい。

私が理解した限りでは、永井さんがそのように評する根拠として、ニーチェは、これまでの哲学者たちが明確にしなかった、道徳それ自体への懐疑を貫徹し、道徳的であることそれ自体は道徳的ではありえない、とする「邪悪なる真理」を暴き出した、ということにあるのではないかと思う。

だが、現代において、もはや道徳の絶対的な価値も、道徳が暗黙のうちに絶対的な権力を持つ、ということもないのではないか。さまざまな価値が崩壊し、美徳の消失がさけばれて、価値は相対化するし、テロは頻発するし、人権は大事なのは分かっているけど難民の受け入れは困難だし、「道徳に従わないことはなぜ悪いことなのか」という、一見すると矛盾したような問いが、ある種の正当性をもって明確に問われているのではないかと思う。というか、私自身がこうした問いが生じるのは当然だと思っているので、ニーチェ評価の神髄がどこにあるのかいまいちピンとこない。もちろん、ソクラテスに始まり、多くの哲学者がこの問題に焦点を真剣に問わなかった、という点が重要であると思うのだが、さしてこの「邪悪なる真理」に「スゴさ」を感じられずにいる。永井さんがこの論考を発表した1980年代後半は、これらの「真理」は絶対的に禁じられていたのだろうか。あるいは、私が誤読しているのか、誤解しているのか、自信はない。

さて、話は戻って、「哲学者」について。先にも述べたように、哲学「研究者」と哲学「者」の違い、なんていうのは、割と多く耳にしたし、文献研究とか「何々について」研究批判とかもよく聞いた。カント研究とかハイデガー研究とか、古典の権威にすがっているだけじゃあなくて、自分の頭で考えてみなよ、とか。ただ、そういう主張をする人びとの多くは、分析哲学を読んで時にパズル解きにうなっているという感じで、結局大陸哲学じゃなくて、分析哲学やれば哲学することだ、と言っているように感じることもあった。もちろん私には理解できていないところも多くあるだろうけれど。

結局は、やはり永井さんの提起した「徹底的であること」が、哲学の必要にして十分な条件であるのかと思っている。その限りでは、研究業界に所属することも、多くの文献を読んでいることも、必要条件ではない。いや、もちろん徹底的に考えるのであれば、他者の意見を知り、より深く考えるべきで、多くの文献を読むことは大切だと思うけれど。この定義に従えば、どんな分野にも「哲学者」は存在する。物理学者であれ、生物学者であれ、文学研究者であれ、文学者であれ、徹底的な探求者は哲学者だ。スポーツ選手にもいるだろう。私は徹底的であることなんて無理なので、どんな分野であれ哲学者にはあこがれます。