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メモ帳

某社会科教員です

リスクについて

リスクがゼロになることを求めることが不合理であることは、極端な事例をいくつか想定すれば、すぐに判断できる。有名なのは、発がん性物質についてのリスク評価だろう。以前の医学知識、物質の検出精度であれば、ゼロリスクを求めることは可能だったかもしれないが、現在のように、身近なものでも発がん性のリスクがあり、また非常に微量な物質も検出できる現在では、リスクをゼロにしようとしたら、何も口に入れられないことになる。

リスク評価については、素人と専門家で、その判断に大きな差があることもよく知られている。原発とレントゲンで、どちらの方がリスクが高いか尋ねると、素人は原発と答えがちだが、専門家はレントゲンと答える。専門家の判断の理由は、レントゲンはほとんどの人が必ず人生で1回以上経験するのに対して、原発事故はほとんど起こないからだ。素人は、未知のものや、ほとんど生じないと思っていることでも、いったん生じると被害が大きくなるものに対して、リスクを高く見積もる傾向がある。

原発で事故なんか起こるわけはない、と多くの人が考えていた。厳重に管理されているし、問題ないだろう、と。電源が消失した際に、対応マニュアルがきちんとあったが、日本では訓練が行われておらず、実際の事故で適切な判断が出来る人がおらず、事故が一気に深刻化したことが明らかになっている。絶対の安全を信じて、日々の訓練を行わなかったことが、今になって非難されている。あの地震が起きる前に、原発のリスクを訴える人は、隕石の衝突を恐れて外出を控えるような人のようなものであったのかもしれない。ところが、実際に生じてしまった。私たちの社会のリスク評価は正しかったのだろうか。

現在、10年後に小惑星が衝突し、深刻なダメージが生じる可能性が、1%に上がったそうである。これは、取るに足らないリスクなのだろうか。それとも、このリスクに備えて、小惑星からのダメージを回避するための対応を真剣に考えるべきだろうか。たとえば、このリスクのために、巨額の研究費が投じられることは、私たちにとって合理的だろうか。

先に、隕石の衝突を恐れて外出を控える人を例に出したが、これはもちろん、アナロジーとしては成立しない。その人が外出を控えても、影響はその人にしか及ばない。ところが、原発事故は、あるいは小惑星のダメージは、大多数の人に影響を与える。つまり、個人の直観を超えて、社会的な意思決定がなされなければならない。

原発事故の場合は、直接的な利害がかなりものを言ったのだと思う。原発により得られる利益は莫大であり、多くの人がそれを甘受することが出来る。この莫大な利益を、生じるかどうかも分からないリスクのために失うのは、不合理である、と判断する人も多かったことだろう。また、リスクが生じるかどうかという問題以外にも、そうした判断が生じやすい理由はある。それは、私たちには、遠くにある利益と、目先にある利益を、公平に判断することは困難だという現実だ。現実的な目先の利益が支配的になるのは、人の根本的な傾向性として無理からぬ事だろう。

私は、こうした傾向性に従って判断する人を非難しようとは全く思わない。また、原発事故がどうして起こったかを追求するのは社会的に重要なことだと思うが、だからといって、どんなリスクも最大限考慮して、とにかくリスクをゼロにしようとするのが正しいとも思わない。

私が関心を持つことの1つは、現在支配的なリスク評価の考え方が、さまざまな知見が集積することで変容しうるか、ということだ。遠くにある利益と目先の利益で、遠くにある利益を優先しようとする傾向性が、社会的な意思決定では自然なものとなる日が来るだろうか。私たちの根本的な傾向性が、科学技術の発展や成功・失敗の集積によって変わることができるのではないか。この可能性を追求することには大きな意義があると思う。リスク評価という問題自体は、科学技術の発展とともに浮上してきた割と新しい問題だと考えられるが、これからどのように社会に対して、そして私たちの日常生活に影響を与えていくのかは、興味深い問題だ。