大江健三郎『万延元年のフットボール』

物語は、頭を赤く塗って、肛門にキュウリを挟んで縊死した友人の話から始まった。なんというか、この最初の掴みにぐっときてしまった。そもそも大江の文体と相性がよいので、楽しく読み進めた。弟の鷹四、妻、そして鷹四の親衛隊と四国に向かって、そこで鷹四の主導する暴動、その顛末が描かれている、というのが一応のあらすじかな。

四国の村で、鷹四の仕掛けに村人たちが関与していき、それが熱狂へと変わっていく。彼らは組織となる。熱狂した組織は、その主導者の鷹四に心酔し、時にはスーパーマーケットの略奪を行い、暴動を仕掛けていく。当初の親衛隊のメンバーは、暴力的になっていく鷹四についていけなくなっていく。

暴動のモデルには、学生運動があるのだろうか。映像で、60年代あたりの世界的な暴動の様子を見たが、彼らは理想に燃え、理想の実現を目的にしているのであるが、しかしながら、それ以上に、熱狂に飢えていて、非日常的な暴動に酔っているようにも見えた。理想や理念は口実で、彼らは非常に個人的な欲求や願望を、その暴動において吐き出しているように見える。この物語で、鷹四は暴動の主導者として、過去の自分の曾祖父たちの物語になぞらえながらも、その暴力的な行動の背景には、個人的な自己処罰への欲求があったと描かれている。私は、人が、根源的な自己の欲求を除いて、純粋に理念や理想だけを動機として行動を起こせると信じていないので、この物語は非常にすんなりと受け入れられた。

鷹四は、自分が犯した決定的な罪を、それにふさわしい処罰を自己に科すことで、帳消しにしたかったのか。少なくとも、それで終わりということは考えていなかったのだと思う。そのように罪を犯した自分の人生を、それでも何か意味あるものと感じようとするとき、処罰されたという感覚は、少なくとも過去の罪を、それに対する処罰という形で意味づけるという意味で、何か意味あるものと感じる契機にはなるかもしれない。けれど、自己処罰は、いかなる意味でも、自己への陶酔ということでしかないと思う。

この物語の根本にあると私に思えるのは、兄の「密」への告白のシーンだ。自分の罪を密に告白し、密がそれを知った上で、自分を受け入れたときに、初めて鷹四は救われると考えたのではないか。この罪の深さを本当に理解できるのは、肉親の密しかいない。この決定的に重要な意味を持つ他者である密に「許される」ことこそが、鷹四にとって本質的に重要なことだったのだと思う。鷹四が、事故で片目を失った密に、自分の死後に自分の目を使ってほしい、といったのは、密の受容を通して、許しを求めていたのだと思えてならない。

最初にふと浮かんだ感想は、自己処罰が自己救済へと結びつくという構造だったけど、やっぱりちょっと違う気もする。結局は、自分の経験と感性によって受け止めるしかないけれど、今は鷹四の救済への物語だったという印象を強く抱いている。