谷崎潤一郎『春琴抄』

谷崎はあまり読んでなくて、以前、ほとんどカタカナの小説を読んだけど、ほとんど記憶がなく、途中で断念したかもしれない。今回、きちんと谷崎の作品を読んだのは初めてかもしれない。

まず、文章が非常に洗練されていると感じた。とても読みやすく、読点の異様な少なさも気にならなかった。丁寧に言葉を拾っていきたいと思ったのは、少なくとも、最初のうちは言葉によるものだと思う。

ただ、その読みやすくきれいな言葉で書かれる世界は、非常に異様なものだった。幼いころに失明した、盲目の春琴と、それに従順に使える佐助の、異常な師弟関係が、この物語の基軸である。美しいと評判で、わがままもひどく、ただし芸事の才能は非常に高い春琴に対して、同じく芸事の才能を見出されて、春琴に稽古をつけてもらいながら、絶対的に服従する佐助の関係は、主人と奴隷の関係と言ってもよいほどに思える。しかし、二人は肉体関係も持ち、子供も生まれている。子供は、すぐに亡くなるか、あるいはすぐに預けられたかのどちらかだ。

佐助は、わがままな主人のすべての身の世話を担当し、春琴のことも、身体も心も一番に理解していたのだろうと思うが、絶対的に服従しながら、肉体関係を持つというのが、どういう状況なのかがよくわからない。お互いに、だれよりも深い信頼関係があったとは思うし、春琴にすれば、身体を許せる相手がいるとすれば、佐助だけだったのかもしれないが、果たしてどういう心境で関係を持ったのか。

春琴は、あるとき寝ている際に襲われて、顔がひどい状態になる。佐助にも絶対に見せたくないという春琴に、その願いを聞くように、佐助は自ら自分の目をつぶし、春琴同様に失明する。佐助は、春琴と同じ状況になれたことに大きな喜びを感じたという。春琴が気弱になることは認められず、失明する前に見ていた、わがままで美しい春琴を崇拝して、現実の春琴よりも、観念としての春琴に慕い続けた、という。

圧倒的な服従の感覚が、快感のように感じられるというのは、なんとなくわかる。ただ、その感覚の中にあって、なぜ春琴と関係を持つことができるのかがわからない。常人には理解できない関係だったといえば、そこまでか。

自分の目をつぶしたことに、至上の喜びを感じるというのは、異常性を引き立てる描写ではあるけれど、この物語の論理としては、正常であるとも思う。春琴は、佐助にとって、絶対的な信仰の対象でなければならず、それゆえにこの二人の関係は、春琴から佐助に対する要求がある以上に、春琴が佐助の信仰にこたえなければならないような、不思議な緊張関係にあったようにも思えた。とりあえず、おもしろかった。