哲学とは何か――木田元の反哲学の導入を読む

木田元『反哲学入門』(新潮社、2011) の第1章と木田元『反哲学史』(講談社、2000) の第1・2章を読む。少なくとも読んだ箇所で言っていることはかなり共通しているが、後者は割と堅めの入門書で、前者は随筆っぽい体裁をとっている。
前者で、木田は、哲学に対してすごく否定的なニュアンスをもってそのイメージを語っている。

社会生活ではなんの役にも立たない、これは認めなければいけないと思います。しかし、それにもかかわらず、百人に一人か、二百人に一人か、あるいは千人に一人か割合ははっきりしませんが、哲学というものに心惹かれて、そこから離れることのできない人間がいるのです。わたしもそうでした。答えの出そうもないようなことにしか興味がもてないのです。 (pp. 20-1)

さらに続けて、以下のようにも書いている。

わたしも、やる前から、なんの役にも立たないことは分かっていました。それじゃあ、哲学から離れて、世の中の役に立つような人生を歩めるかというと、これができないのです。ほかの職業を選んだとしても、たぶん、ずっと哲学が気になって気になって仕方がなく、中途半端な生き方をすることになったと思います。
 哲学科に入ってくる学生や、哲学者の愛読書などにはこうした性向をもっている人が多いわけでしょうね。哲学から抜け出せないことは、とても不幸なことなのですがね。わたし自身、後悔はしていませんが、哲学にとり憑かれなければ、もう少し楽な生き方ができたと思います。哲学は不治の病のようなものですよ。わたしのばあいは、哲学を自分の仕事としたために、哲学がもつ毒をよく理解することができました。
 だから、人に哲学をすすめることなど、麻薬をすすめるに等しいふるまいだと思っています 。(p. 21)

木田によれば、哲学は麻薬であり、病であり、毒をもっていて、哲学から抜け出せないことは、とても不幸なことなのである。人に哲学をすすめることは、麻薬をすすめるに等しい、と。哲学に興味を持ってくれる人を増やそうなどというのは、犯罪に等しい行為にうつるのだろうか。では、木田自身がやっていることは何なのか。彼は、哲学という病に取り憑かれる人もいるので、そういう人を楽に往生させるために入門書を書いている、と言う。これはまた極端な哲学に対する見方だと感じる。

ちなみに、続いて書かれた文章も興味を引かれた。

私の書く入門書は、同じような不幸を抱える人を読者に想定して書いています。同類相憐れむですね。だから「子どものための哲学」なんと、とんでもない話です。無垢な子どもに、わざわざ哲学の存在を教える必要はありません。(p.22)

 「子どものための哲学」という言葉を聞くと、永井均を想起する人は多いだろうし、当時話題になった本なのかもしれない。敵対心なのか、あるいは個人的な交友関係があって愛情たっぷりの皮肉を言っているのか、あるいは永井均とは全く関係ないのか。その関係に関心を持っているわけではないが、永井の哲学観と比較する、というのは面白いかもしれない。

さて、では、そこまでネガティブに言われた哲学とは何なのか。木谷よれば、哲学とは、「ある」とされるあらゆるもの、存在するもの全体がなんであり、どういうあり方をしているのかについての特定の考え方、だと規定される。そして、この考え方は西洋の文化圏のみで生まれたものである、と。

ここは面白い点だと思う。木田によれば、存在全体を規定しようとするためには、規定しようとする自分は、存在全体の内部にいながら、その全体を見渡せる特別な位置に立てなければならない。「存在するもの全体」を「自然」と呼ぶと、自分はそうした自然を超えた「超自然的な存在」であると考えるか、あるいは「超自然的存在」と何らかの関係にあると想定しないと、以上のような問いはそもそも立てられない。

この自然を超えたものとしての超自然的な原理として、イデア、神、理性、精神などといったものが想定されており、この原理によって自然は形を与えられ、制作される材料となる。自然は生きたものではなく、制作のための無機的な材料、物質に過ぎないものとなる。木田によれば、超自然的原理と物質的自然観の成立は連動しているのである。

プラトン以来、超自然的原理から自然を見る独特な思考様式が西洋の伝統となり、哲学と呼ばれて来た。このことに気づいたニーチェは、19C後半に、ヨーロッパ文化は行き詰まりを見せ、その原因がこの独特な思考様式にあると指摘したらしい。そして、西洋文化の根底にある思考法、つまり超自然的原理から自然を規定しようとする思考法が無効化したことを「神は死せり」と宣言した。この解釈では、もちろん、「神」とは超自然的原理を意味することになる。

さて、以上が木田が言っていることの簡単な要約だが、大局的には分かるような話だが、どうもすっと入ってこない。哲学史の勉強不足は、こういうときにはひっかかりを多く生む。まず、存在するもの全体を、なぜ「自然」と呼ぶことにするのかが分からない。ありとあらゆるものについて語るのであれば「概念」なんかはどう扱われるんだろうか。つまり、存在というものが何を意味しているのか、そんなにはっきりした共通見解が維持されてきたんだろうか。木田の言っていることは、入門用に乱暴にまとめたのか、はたまた私の勉強不足なだけで疑問点は存在しないのか、あるいは木田のような見解は、1つの哲学史観として存在しているのか。

ここから木田は、哲学の歴史的な開始点として、ソクラテスの話を始めるが、とにかくこの本はいろんな話題を行き来して読みにくいので、ここから『反哲学史』の方に読み替える。

 哲学はもともと「愛知」、知を愛するという意味だが(そこに至るまでにも来歴があるようだが)、ソクラテス以前は「知的好奇心が強い」「知識欲が旺盛な」という意味だったらしい。ところが、ソクラテスがはっきりと意味を変えてしまった。

ソクラテスによれば、愛するというとき、その愛の対象を自分のものにしようと欲求することを意味する。これはつまり、その愛の対象をまだ自分のものにしていないことを意味する。では、愛知者たる哲学者をこの原理に当てはめるとどうなるか。もちろん、知を自分のものにしたいのだが、まだ所有していない、ということになる。無知なんだけど、それは愚か者ということではなく、自分の無知を知っているという人のこと。ソクラテスにとって、哲学とは「無知の知」、自分の無知の自覚の上にたって知を愛し求めることである。

どうしてこんな考え方を持ち出したのか。ヘーゲルは『哲学史講義』で、愛酒家は酒に浸りきっている人間を指すのだから、愛知者は知を所有している人を指すのが自然だろう、とソクラテス批判を行っているらしい。木田によれば、ソクラテスソフィスト(当時の知識人たち)との論争に絶対に敗れない立場を確保しようとしたからだ、ということになる。ソクラテスは衆人環視の中で、ソフィストに、美や勇気についてあれこれ質問し、答えさせ、その答えの矛盾を指摘し、相手に無知を告白させればよい。確かに、プラトンの著作に出てくるソクラテスは、本当に嫌なやつだと思えるときがある。

当時の人もそう思っていたらしい。当時のアテナイ市民たちは、ソクラテスの論争の仕方を「エイローネイアー」と呼んでいたらしいが、これはironyへとつながる言葉で、皮肉を意味するようだ。このソクラテスアイロニーは、ヘーゲルキルケゴールの関心にもなったらしく、キルケゴールに至っては、学位論文のテーマにしたほどらしい。

皮肉は嘘と違って、発言内容が本心ではないことが相手に伝わらないと意味がない。嘘つきは、発言が嘘だとばれないように、場合によっては嘘を重ねなければならず、びくびくしなきゃいけないが、皮肉屋は、自分の皮肉発言には無責任でいられる。自由である、とも言える。キルケゴールは、この点を「皮肉においては、主体は否定的に自由である」と言っているらしい。どうしてもっと簡単な表現を使ってくれないのか…。

さて、皮肉を言われる相手というのは、得てして勘違いしているやつだ。よく知りもしないのに、知ったかぶりをしているやつに「信じられないくらい物知りだね」と言うような感じ。皮肉を言われる側は、あまりに誇張された皮肉表現により、相手の内心をしる(この場合は、自分がよくものも知らないのに知ったかぶりしてんじゃねえよ、みたいな)。すると、皮肉を言われた方は、自分が外面で見せている姿と、本当の実力的な内面の相違に気づく。実はよくものを知らない、という自分の本質(!)に立ち返らさせれる。皮肉は教育効果があるのだ。ニーチェもそう言っているらしく、というか、そういう教育的な信頼関係がない場合は、皮肉はただの無礼で、低俗な気取りだ、とも言っているようだ(『人間的な、あまりに人間的な』で)。

さて、ソクラテスアイロニーに戻ると、そこには謎があり、もしもソクラテスがアイロニストで、無知を偽装していたのであれば、彼は実は真の知を所有していたことになる。しかし、果たして本当にそんなものを持っていたのか。少なくともプラトン初期の対話篇では、ソクラテスは何一つ肯定的な結論を出さない。どうも彼の無知の告白は、額面通りに受け取らなければならないのではないか。

そこで、木田は、ソクラテスアイロニーは、既成の知識や実在をかたっぱしから否定して、その代案を持ち出そうとせず、一切を否定し去ろうとする無限否定性ともいうべきものであった、と言う。まあ、確かに、これが答えだ、というものが提案されたら、自分が出したものでも、相手が出したものでも構わず、全部否定するのだから、ね。これを「無限」否定性、と仰々しく名づけるのにも理由があるのだろうけど…。

以上、木田の反哲学の導入部分を見てきた。もちろん、ここでは存在全体みたいな話になっていないし、目次を見てみると、ハイデガーが1つの終着点みたいになっている気がする。そこまで進んで、初めてすっと理解できることもあるんだろう。

ただ、とりあえずここまで読んできた限り、哲学とは、①麻薬で毒でどうしようもないもので、②出発点は「無知」の自覚の上に「知」を愛し求める運動にある、という木田の見解?みたいなものは見て取れた。それともちろん、③超自然的原理に基づき存在(自然)を規定しようとする考え方、である。この点に気づいた人々は、ある種の「反哲学」の系譜に属する。なじみが全くない話が多くて、そこは勉強になった。気が向いたら『反哲学史』の続きは読んでみたい気もする。