哲学とは何か――永井均『〈子ども〉のための哲学』の導入などを読む

木田元の本の導入を読んでから、ちょっと気になっていて少し読んだ。木田は、子どものための哲学なんてとんでもない、という立場。そして、その子どものための哲学を標榜するのが永井である。しかし、ここでまず、単に「子ども」と書かれておらず、〈子ども〉と書かれていることには注意が必要だ。永井がここで〈子ども〉と呼ぶ対象は、一般的に考えられる分類としての「子ども」ではない。

井の哲学観は、簡潔なものだと思う。自分にとって本当に問題に感じることを、自分が納得できるまで徹底的に考え抜くこと、これが哲学である。しかし、これだと、どの学問分野の人も、あるいは学問にかかわらず、政治家だって誰だって、何か問題に感じていることを納得いくまで考えていると言えるのではないか。

ここに永井の興味深い分類がある。永井によれば、子どもに特有の問いのカテゴリーがある。子どもの問いは、世界の存在や自分の存在、世の中そのもののの成り立ちしくみ、過去や未来の存在、宇宙の果てや時間の始まり、生きていることや死ぬこと、善悪の真の意味、といったものである。これらは子どもにとっては大きな問題だが、大人になると、こうした問題は問いではなくなってしまう。そこで、こうした問いをずっと問い続ける人は、大人になっても子どもの問いを持ち続けられる人であり、大人だけど〈子ども〉である。

大人になると、問いとが問いでなくなることがある、という指摘は私にはよくわかる。子どもの頃、自分が死ぬことが本当に恐ろしくて(今も時々、すごく怖くなる感覚はあるが)、なんで生まれてきたのかと考えて、親に尋ねたことがある。悪いことがどうして悪いのか、時間はいつ始まるのか、この世界は自分しか本当はいないのではないかなど、こんなことを延々と考えていたのは子どもの頃だ。しかし、次第に考える問いは限定されていくし、それだけでなく問いの種類も変容してきた。昔のように原理的なことを、原理的なまま考えられなくなった。私が自分について感じるのは、知識を得たからだと思う。法の存在を知り、自然科学の知識をかじり、人との付き合い方を知り、大人の中には幼稚な人がいることも知ったが、大人の中には大人であるがゆえの優しさがあり、それがとても好きだと気づいたりしていくうちに、問いが問いではなくなってしまった。

永井は、この子どもの問いから始まり、人間の成長段階に合わせて、それぞれの哲学があると言う。青年の哲学は、いかに生きるべきか、という問題を考える。青年は現実を超えた価値をどこかに求める。大人の哲学は、世の中のしくみをどうしたらよいか、を考える。そして、老人の哲学は死を考える。ここでもう一度、子ども時代の主題が問題になる。

そして、永井は、青年の哲学には文学、大人の哲学には思想、老人の哲学には宗教が代用できるが、子どもの哲学だけ替えが効かない、という。だからこそ、子どもの哲学こそが、最も哲学らしい哲学である、と。

これも私には、あまりにあてはまっている。学生の頃は、どう生きればよいのかを、学生身分のままだからこそ、必死で考えていた。時には聖書を読み、仏教をかじり、そして小説を読みふけった。それが、今や世の中の仕組みに関心を当てている。これからまた、老いが決定的になれば、死を考えるのだろうか。

とかく、永井の語り口には、いちいち納得してしまい、自分には、永井流に書けば〈哲学〉は遠いものになったのかな、と寂しくも感じた。職を得て、日々の業務をこなしていく中で、真摯に自分の問いを納得いくまで問い続ける姿勢は、失われてしまった気がする。誰かに評価されることを求めてしまうこともある。

さらに永井の指摘で、なるほど、と思ったのは、青年の哲学も、大人の哲学も、なにか「よきもの」を探求する、という指摘だ。しかし、〈子ども〉の哲学には、そのようなものはない。そこには、ただ問いがあり、〈子ども〉の哲学は、ただその問いを問い続けることなのである。

何というか、「哲学原理主義」みたいな表現を用いたくなる。こういう原理主義的な人は、ウィトゲンシュタインもそうだったのだろうけれど、本当に問い続け、考え続けなければならない人なのだろう。そうした人は他にもいると思うが、無条件に敬意を払いたくなる。〈子ども〉の哲学を問う人は、何も職業哲学者だけではない。きっと自然科学者にもいるし、職を持っていない人にもいるだろう。〈子ども〉の哲学は、「哲学」と合致する必要はない。

自分には、〈子ども〉の哲学は不可能だな、という思いがよぎる中で、ふと、日常の瞬間の中で、ある種〈子ども〉に戻るような時があることを感じることも思い出す。「忙しいから」と問わなくなって、すぐに忘れてしまうけれど、確かにそうした瞬間はある。またしても永井の指摘通りだと思ってしまう。彼は、実は誰もが、それぞれの仕方で、水中に沈みがち(これは〈子ども〉の問いへと引きつけられる、という意味だと理解している)な一面があるのではないか、と言う。しかし、大人は、そこに沈み込むことが許されない人でもある。なぜなら、「世の中」の一員として組み込まれ、その中で生きていくしかないからだ。「世の中」のあり方そのものを問う〈子ども〉の視点をとり続けることはできない。

さて、非常に懐古的な気持ちになってしまい、あまり関心がなくなったが、果たして木田と永井は対立しているのだろうか。二人とも、哲学の誕生をソクラテスのうちに見いだし、二人とも哲学者とは、それを問わずにはいられない人だという。永井はそれを〈子ども〉と呼び、木田はそれを病だと言う。そして、〈子ども〉の哲学であれ、病としての哲学であれ、どちらの哲学者にせよ、普通の世の中で大人/健康な人、と自分の本性のままに付き合うのは難しいだろう。哲学を行うことがどのようなものなのか、そこに関しては二人の間に対立点はないのかもしれない。永井は木田を〈子ども〉と言うのかもしれないし、木田は永井を「病に取り憑かれた」と言うのかもしれない。

ただ、表層的に、よく検討もしないところで、似通ってるように見える点をあげつらって、二人は同じ考えだ、などと言っても仕方がないだろう。それよりも、木田の話を読んで、永井の話を読んで、今の自分に問いたくなる気持ちが強くなった。そのことが自分には大きな収穫に感じる。