哲学とは何か――スティーブン・ローの場合

哲学とは何なのか。そこに何があるのか。何か深遠な問い、たとえば生きる意味の答えがあるのだろうか。

幼い頃は、ただ死ぬのが怖いという思いがあり(今もたまにそうした感覚がよみがえるが)、そこから逃れるための答えがあるのが哲学だと思っていた。そこで、どうしようもなくなったら、哲学を勉強することで、死の恐怖を克服したいと思っていた。ただ、何を言っているか分からない内容の集まりのようなイメージもあり、勉強することがあるのか疑問にも感じていた。

しかし、そんな答えがあるわけもなく、ありそうもない。精神安定剤を飲む方が、よっぽど効果的である。その意味では、初発の関心としての哲学には魅力を感じなくなったが、しかし哲学的な議論は好きだ、と思う。ただ、哲学って何をすることなのか、と言われると、答えるのにとまどう。

そこで他の人の知恵をぜひ拝借したいと思った。哲学とは何かについて言及するのは、メタ的な哲学研究の専門書か、哲学の入門書だ。前者を読むのは、私には難しそうだ。ほとんどよく知らないし、その手の専門書は私にはテクニカルすぎて読めないと思われる。逆に、入門書はよく使うし、というか入門書くらいしか読めないし、なんだか分かったような気にさせてくれる。この手の本を頼りに、哲学とは何かについて、少し勉強してみよう。

ティーブン・ロー『考える力をつける哲学問題集』は、とてもよい本だと思う。読んでいて楽しい。さまざまな「哲学的」問題群に初心者を誘導するのに、最適なものの1冊だと思う。意外と類書は少ない気がする。

ローは、哲学の問題について、まず「科学的答えることのできない」ほどの深い問いであることを示唆する。やはり、現代において、哲学を特徴付けるのに、「科学」を持ち出すのは、お決まりの戦略なんじゃないかと思う。自然科学が驚異的に発展し、素人には何を言っているのかさっぱり分からないけど、次々と問題が解決し、便利になり、予測できている現状で、その自然科学とは別に考えるべき問いがあるのか、と。そして、ローは「ある!」と答えるのである。自然科学が扱うよりも深く、考えるべき問いがあり、それがまさに哲学的な問いなのだと。ここでの「深い」という言葉で示されるのは、要は、自然科学だけでは解決できない問題を扱っている、ということだ。たとえば「そもそも何かが存在するのはなぜか」など。

しかし、こうした「深遠な」問いについて答えを出すのは哲学の専売特許ではない。宗教もまた、いや、宗教こそがこうした問いの答えをこれ以上ないほど積極的に提供してきた。では、宗教と哲学は何が違うのか。ローの答えは「合理性」の有無である。哲学は合理的に主張するが、宗教の場合は、宗教的な権威で「信じる」ように諭す。

哲学とは何か。以上を踏まえると、ローの見解としては、以下のように答えられる。それは「科学では答えの出ない問いを、宗教とは違って合理的に答えようとする学問である」。

しかし、このローによる哲学の特徴付けには続きがある。ローは、生活の至る所に哲学がある、と言う。誰も見ていなくても物理的対象が存在し続けると考えるのは、哲学的な信念である。無神論も哲学的信念の一つである。

なるほど、おそらくローの見解では、哲学的な議論の対象となり、議論の帰結として持つことができる信念は、すべて「哲学的」信念と呼べるのかもしれない。しかし、そうだとすると、結局、科学的信念も哲学的信念だし、宗教的信念も哲学的信念になり、結局はどれもこれも哲学の問題圏に収まってしまうことにならないだろうか。科学や宗教との比較のもとに特徴付けられそうな哲学は、もはや比較対象を飲み込んで、もっと巨大で「深遠な」何かになってしまう。

この見解の妥当性を私は判断できない。というより、結局は、哲学に対するこうした見解も、一つの「哲学的信念」に他ならないのではないかと思う。つまり、この哲学観は、哲学者同士で議論し、対立する可能性のある一つの信念(に過ぎないの)である。

自然科学者も宗教者も、哲学者から一方的にこんな風に言われたら、中には腹を立てる人もいるかもしれない(し、哲学を勉強しようと思う人もいるかもしれない)。「哲学とは自然科学の一部に過ぎない」「哲学とは合理性についての信仰の一つである」などと反論というか、反撃されるかもしれない。

さて、哲学とは何か。それ自体が哲学の問いになるところが、哲学の根源性であり、面白さなのかもしれない。そうであるならば、他の哲学者の哲学に対する規定も見てみたい。とりあえず、今日はローの見解を参考にした。気が向いたら、他の人の見解もちょっと読んでみよう。

 

※ローは、哲学を学ぶと、ものごとを考える態度やスキルが身につき、それによって生活の質が信じられないほど高まる、と言っている。たしかに哲学者は、哲学的訓練を受けることで、より豊かなものの見方を習得できるのかもしれない。しかし、そうした訓練されたものの見方は、社会生活を円滑に送る上では、信じられないほどリスキーかもしれない。有用性を前面に出すのは、もう少し待ってもいいかもしれない。