哲学とは何か――トマス・ネーゲルを参考にしてみる

トマス・ネーゲルの有名な入門書『哲学ってどんなこと?―とっても短い哲学入門』(昭和堂、1993)は、基本的には個別の哲学的問題を取り扱うものだが、「1 はじめに」では、哲学の基本的な性質についてコメントしている。基本的にはローと同じ構成の本である。

ネーゲルによれば、14歳くらいで多くの人は哲学的な問題を自分で考え始める。たとえば、何が本当に存在しているか、私たちは何かを知ることができるのか、人生には何か意味があるのか、死は終わりなのか、などなど。私は中学生ぐらいのときに、どうせ死ぬのに生きる意味があるのか、などと考えていたけれど、同じような話だと思う。確かに、これくらいのときは、妙な観念的なことを考えたくなる年頃なのかもしれない。

ネーゲルが言いたいのは、もちろんそんな発達段階の話ではなく、こうした現象が共通してみられるのは、哲学が、私たちと世界との関係から直接生まれるものである、ということだ。決して、過去の著作を読んで、過去の哲学者の見解を学んでいく中で、哲学的な問題を知り、その解決の技法を知る、ということではない。ここに、哲学の基本的な性質として、私たちの多くが直接的に問題を考えるようになる、というある種の根源性が示唆される。

さらに、ローと同じように、科学あるいは数学を持ち出して、哲学を特徴付ける。哲学は、科学と違い、実験や観察ではなく、思考だけを頼りにする。数学と違って、形式的な証明方法はない。では、どのようにして哲学は行われるのか。彼は「問いを立て、議論し、考えを吟味し、それらに対して加えられるかもしれない反論を思い描き、私たちの概念は本当に有効なのかと考えてみること」(p. 5) が哲学の方法だと述べる。

ここに、哲学の基本的な性質として、哲学は思考を頼りにし、議論をベースとする活動であることが示される。ここで注目したいのは「議論」や「反論」という言葉だ。たとえ仮に哲学者が1人だけで思索をしたとしても、そこにはある種、仮想反論者を想定した「対話」があるような気がする。哲学は本来的に対話をベースとして、議論を行うことを中核に据えた活動であると言えるのかもしれない。

さらに、哲学的な問いの対象について、哲学は非常に一般的で、普通はとりたてて考えることがないような観念を問い直す、と述べている。これは、上に述べた哲学の根源性を言い直したようなものかもしれない。たとえ知識がなくても疑問を投げかけ、考えられるような問題、それは、私たちの日常に身近な問題にならざるをえない。たとえば、時間、数、知識、言語、正しさなど、こうした問題を問い直すことに、哲学の特徴がある。

では、なぜこうしたことをわざわざ問い直すのか。こんなことを考え直さなくても、十分不自由なく私たちは生きていける。ここでネーゲルは、世界や私たち自身について理解をちょっぴり深めることを、目的に据える。

以上、まとめてみよう。ネーゲルによれば、哲学は、目的として世界や自分たちの理解を少し深めるために、対話的な手法をベースに、身近で普段疑わないような観念を問い直してみる活動、ということになる。

自然科学だって、世界や私たちについての理解を深めるために行われている活動だ。それゆえ、哲学の目的の部分は、哲学を固有に特徴付けるものにはならないと私は思う。身近で普段は疑わない問いを問い直すこと、というのも、哲学に固有な特徴付けにはならない気がする。自然科学も、私たちの身近な問題、時間や数、言語とは何かを明らかにしようとするし、今では道徳的な問題まで手を伸ばしている。そうすると、哲学固有の性質は、思考だけを使う、というある種の「制限」になってしまうのだろうか。

私がここで気になるのは、子どもでも考えられる問いと、観念(概念と置換可能ではないかと思う)に関わる活動である、というところだ。あまり考えが及ばないが、この観点に少しこだわって、さらに哲学とは何かについて、他の見解も見ていきたいと思う。