哲学とは何か――ゲルハルト・エルンスト『哲学のきほん 七日間の特別講義』を読んで

本書は、対話形式の哲学入門書である。この七日間の特別講義では、各曜日にそれぞれ異なるテーマについて、哲学者と読者が対話を行う。最終日直前の土曜日のテーマが「哲学とは何か?」であった。ここだけしか読んでないけど、わかりやすく、かつある程度網羅的に書かれていて、かつ、背景知識の説明を入れる余地があり、教師が解説を加えやすそうな気がする。(分析)哲学入門のテキストとして使えるかも。

話題は多岐にわたるが、これまでに扱ってきた中で、私が個人的に考えたいのは、哲学と科学の関係である。自然科学の知識によって成立しているこの時代に、哲学を学ぶ意義はどこにあるのか。哲学が独自に果たす役割とは何か。

本書では、まず哲学と科学の協同の可能性が指摘される。哲学は概念を明らかにし、科学者は実験により概念を明らかにする。一見同じことをしているようだが、科学者は、実験に先立って、ある規定された概念を用いて探求を行う。その実験の基礎にある概念が何を意味しているのか、それはどのような概念の体系を生み出しているのか。こうしたことは、分析的・必然的・アプリオリな真理を探究する哲学者の得意とするところである。哲学者は概念を明らかにし、科学者は実験を行い、両者が協力して科学の営みを支える、というイメージがここに生じる。

このイメージは私には理解しやすい。たとえば神経科学者が「自由意志」とは何かを明らかにした、と発表するとき、そこで意味される「自由意志」とは何か。それは私たちが日常理解しているものと同じものなのか。日常的な概念の持つ豊かさを実験によって完全に確かめる、というのは考えにくい。概念分析の段階で実験に進めなくなるからだ。よって、科学者は操作的に定義する。たとえば「……を満たせば、自由意志を持っているといえる」といった形で。この操作的な定義が適切かどうか、哲学者の議論は、探求の指針を見いだしたり、概念的な混乱を解きほぐす助けになるかもしれない。

さて、上のイメージにあるのは、「概念の解明」としての哲学である。しかし、哲学が行っているのはこれだけではない。概念を作り上げることも行っている。

概念を作り上げる、ということは理解しやすい。たとえば、クジラが魚ではない、ということがここでは例に挙げられている。日常的に考える限り、クジラは魚である。しかし、クジラは魚ではない。なせなら、生物学者による魚の分類から外れるからだ。では、魚の分類はどのように行われたのか。明らかに初めのうちは、海辺で日常生活をする人々が、生活の都合で決めた分類である。ここには経験的知識の出番はまだない。しかし、生物学が誕生し、さまざまな手法で知識を積み重ねることで、魚に分類されている生物が持つ特徴が明らかになり、この特徴に照らして考えると、クジラは魚とはあまりに異なっていることがわかる。そこで、クジラは魚ではない、ということになった。ここでは、魚についての経験的知識が利用されることで、魚の定義が改訂されてきた歴史がある。

このように経験的知識を利用することで、私たちがなんとなく利用してきた概念の輪郭がより明確になる。これが概念を作り上げる、ということであり、概念形成と呼ばれるものだ。

「時間」とは何か、という問いに対して、物理学は信じられないほど多くのことを明らかにしてきた。物理学が解明してきた時間概念は、非専門家には容易に理解しえない複雑で高度な規定が与えられていることだろう。しかし、それだけが「時間」の全貌とは言えないだろう。私たちが古代から問い続け、考えてきた「時間」概念、時間の謎との関係も含めた上で、物理学からの知見という新たな観点も踏まえた概念体系こそが、現代の時代における時間概念の探求になるだろう。

ここに見いだせるのは、「謎」に立ち向かい、「体系化」を目指す哲学者のイメージである。時間とは、物理学の視点からはAというように説明されるかもしれず、脳神経科学からはBというように説明されるかもしれず、心理学からはCというように説明されるかもしれない。哲学者が問い続けた謎は、このどれかによって解明されるかもしれないし、どれからも解明されないかもしれない。AもBもCにも目配せしながら、あるいは時に対立しながら、探求の対象とする概念が生じさせる謎と対峙し、解明を行い、新たに作り上げていく。哲学は、科学の基礎にあたる概念整理だけでなく、科学者と協同して、謎の解明にあたり、それを通じて概念の体系化された全体像を示そうとしているかもしれない。

哲学が行うのは、世界とは何か、そして人間とは何かを明らかにする営みである。それは、自然科学であろうと、数学であろうと、文学であろうと、この探究に関わるすべての人の根源にある試みと言える。大げさな言い方かもしれないが、あらゆる知的探求の根源には、哲学があると言えるかもしれない。また、私たちが知りうる限界とは何か、神は存在するか、などの自然科学の外側にあるような謎を問い続け、あるいは矛盾とは何か、原因とは何か、いった自然科学の根底にある概念の謎を問い続ける試みが、問われる時代のさまざまな知見や制約を受け入れながら展開されていく限り、哲学は独自性をもった根源的な知的探求として生き続けると思う。

ということで、本書を読み限りで、哲学を特徴付けるキーワードとして、「概念」「体系化」そして「謎」が挙げられる。これらはいずれも哲学の専売特許ではないが、まさにこの問題を主たる探求の対象として研究し続けるのは、哲学者以外には存在しない。

自然科学との関係では、どのようなことが言えるだろうか。哲学者は、自然科学の基礎にある概念を解明し、その限界とは何かを問い、そして自然科学による解明が世界の理解においてどのように位置づけられるのか、という活動の本性自体を問う。自明と思われるもの、自明なものとして進めたい概念に謎を見いだし、自然科学の解明が世界を理解しようとする試みのすべてではない可能性を指摘する。一筋縄ではいかず、時に自然科学者に毛嫌いされながらも、基盤にある問題をしつこく問い返す、こうした厄介な役回りこそが、哲学がもつ自然科学との関係性と言えないだろうか。