2020/07/06

・結局朝6時まで、チューリングマシンのお勉強。学生のときにやっとけよと思った。

・昼に起きて職場で授業準備。10時までかけてようやく終わる。

・飯食って少し休んだらもう日付が変わっている。

・明日は結構大変そうで憂鬱。

・ちょっと休める日を作らないとよくないかも。

・とはいえ、今週の授業準備、あと1科目終わっていない…。寝る前に関連文献読書する。

2020/07/04

最近、あまりに何をしたのか記憶がないので、日記でも。それを書くことの記憶もなくなりそう。

 

・昼に起きて、キッチンの水漏れが悪化していることに気づく。補修用のテープを購入。古すぎて手遅れの感じがする。

・職場に行って、お仕事。月曜の準備。意外と多い。

・同様に職場で、事務作業。分からんことが多い。

・同様に職場で授業準備。functionalismの勉強。こんなのも読んでなかったのかと反省するけど、もういろいろと手遅れ。

・ルイスの火星人と狂人の例は面白い。いろいろ勉強になる。ただ、今日は読書で終わる。evernoteにメモ作成。

・仮作成済みの資料の修正。説教くさいことをたくさん書いている。これでよいのだろうか。

 

哲学とは何か――永井均『〈子ども〉のための哲学』の導入などを読む

木田元の本の導入を読んでから、ちょっと気になっていて少し読んだ。木田は、子どものための哲学なんてとんでもない、という立場。そして、その子どものための哲学を標榜するのが永井である。しかし、ここでまず、単に「子ども」と書かれておらず、〈子ども〉と書かれていることには注意が必要だ。永井がここで〈子ども〉と呼ぶ対象は、一般的に考えられる分類としての「子ども」ではない。

井の哲学観は、簡潔なものだと思う。自分にとって本当に問題に感じることを、自分が納得できるまで徹底的に考え抜くこと、これが哲学である。しかし、これだと、どの学問分野の人も、あるいは学問にかかわらず、政治家だって誰だって、何か問題に感じていることを納得いくまで考えていると言えるのではないか。

ここに永井の興味深い分類がある。永井によれば、子どもに特有の問いのカテゴリーがある。子どもの問いは、世界の存在や自分の存在、世の中そのもののの成り立ちしくみ、過去や未来の存在、宇宙の果てや時間の始まり、生きていることや死ぬこと、善悪の真の意味、といったものである。これらは子どもにとっては大きな問題だが、大人になると、こうした問題は問いではなくなってしまう。そこで、こうした問いをずっと問い続ける人は、大人になっても子どもの問いを持ち続けられる人であり、大人だけど〈子ども〉である。

大人になると、問いとが問いでなくなることがある、という指摘は私にはよくわかる。子どもの頃、自分が死ぬことが本当に恐ろしくて(今も時々、すごく怖くなる感覚はあるが)、なんで生まれてきたのかと考えて、親に尋ねたことがある。悪いことがどうして悪いのか、時間はいつ始まるのか、この世界は自分しか本当はいないのではないかなど、こんなことを延々と考えていたのは子どもの頃だ。しかし、次第に考える問いは限定されていくし、それだけでなく問いの種類も変容してきた。昔のように原理的なことを、原理的なまま考えられなくなった。私が自分について感じるのは、知識を得たからだと思う。法の存在を知り、自然科学の知識をかじり、人との付き合い方を知り、大人の中には幼稚な人がいることも知ったが、大人の中には大人であるがゆえの優しさがあり、それがとても好きだと気づいたりしていくうちに、問いが問いではなくなってしまった。

永井は、この子どもの問いから始まり、人間の成長段階に合わせて、それぞれの哲学があると言う。青年の哲学は、いかに生きるべきか、という問題を考える。青年は現実を超えた価値をどこかに求める。大人の哲学は、世の中のしくみをどうしたらよいか、を考える。そして、老人の哲学は死を考える。ここでもう一度、子ども時代の主題が問題になる。

そして、永井は、青年の哲学には文学、大人の哲学には思想、老人の哲学には宗教が代用できるが、子どもの哲学だけ替えが効かない、という。だからこそ、子どもの哲学こそが、最も哲学らしい哲学である、と。

これも私には、あまりにあてはまっている。学生の頃は、どう生きればよいのかを、学生身分のままだからこそ、必死で考えていた。時には聖書を読み、仏教をかじり、そして小説を読みふけった。それが、今や世の中の仕組みに関心を当てている。これからまた、老いが決定的になれば、死を考えるのだろうか。

とかく、永井の語り口には、いちいち納得してしまい、自分には、永井流に書けば〈哲学〉は遠いものになったのかな、と寂しくも感じた。職を得て、日々の業務をこなしていく中で、真摯に自分の問いを納得いくまで問い続ける姿勢は、失われてしまった気がする。誰かに評価されることを求めてしまうこともある。

さらに永井の指摘で、なるほど、と思ったのは、青年の哲学も、大人の哲学も、なにか「よきもの」を探求する、という指摘だ。しかし、〈子ども〉の哲学には、そのようなものはない。そこには、ただ問いがあり、〈子ども〉の哲学は、ただその問いを問い続けることなのである。

何というか、「哲学原理主義」みたいな表現を用いたくなる。こういう原理主義的な人は、ウィトゲンシュタインもそうだったのだろうけれど、本当に問い続け、考え続けなければならない人なのだろう。そうした人は他にもいると思うが、無条件に敬意を払いたくなる。〈子ども〉の哲学を問う人は、何も職業哲学者だけではない。きっと自然科学者にもいるし、職を持っていない人にもいるだろう。〈子ども〉の哲学は、「哲学」と合致する必要はない。

自分には、〈子ども〉の哲学は不可能だな、という思いがよぎる中で、ふと、日常の瞬間の中で、ある種〈子ども〉に戻るような時があることを感じることも思い出す。「忙しいから」と問わなくなって、すぐに忘れてしまうけれど、確かにそうした瞬間はある。またしても永井の指摘通りだと思ってしまう。彼は、実は誰もが、それぞれの仕方で、水中に沈みがち(これは〈子ども〉の問いへと引きつけられる、という意味だと理解している)な一面があるのではないか、と言う。しかし、大人は、そこに沈み込むことが許されない人でもある。なぜなら、「世の中」の一員として組み込まれ、その中で生きていくしかないからだ。「世の中」のあり方そのものを問う〈子ども〉の視点をとり続けることはできない。

さて、非常に懐古的な気持ちになってしまい、あまり関心がなくなったが、果たして木田と永井は対立しているのだろうか。二人とも、哲学の誕生をソクラテスのうちに見いだし、二人とも哲学者とは、それを問わずにはいられない人だという。永井はそれを〈子ども〉と呼び、木田はそれを病だと言う。そして、〈子ども〉の哲学であれ、病としての哲学であれ、どちらの哲学者にせよ、普通の世の中で大人/健康な人、と自分の本性のままに付き合うのは難しいだろう。哲学を行うことがどのようなものなのか、そこに関しては二人の間に対立点はないのかもしれない。永井は木田を〈子ども〉と言うのかもしれないし、木田は永井を「病に取り憑かれた」と言うのかもしれない。

ただ、表層的に、よく検討もしないところで、似通ってるように見える点をあげつらって、二人は同じ考えだ、などと言っても仕方がないだろう。それよりも、木田の話を読んで、永井の話を読んで、今の自分に問いたくなる気持ちが強くなった。そのことが自分には大きな収穫に感じる。

哲学とは何か――木田元の反哲学の導入を読む

木田元『反哲学入門』(新潮社、2011) の第1章と木田元『反哲学史』(講談社、2000) の第1・2章を読む。少なくとも読んだ箇所で言っていることはかなり共通しているが、後者は割と堅めの入門書で、前者は随筆っぽい体裁をとっている。
前者で、木田は、哲学に対してすごく否定的なニュアンスをもってそのイメージを語っている。

社会生活ではなんの役にも立たない、これは認めなければいけないと思います。しかし、それにもかかわらず、百人に一人か、二百人に一人か、あるいは千人に一人か割合ははっきりしませんが、哲学というものに心惹かれて、そこから離れることのできない人間がいるのです。わたしもそうでした。答えの出そうもないようなことにしか興味がもてないのです。 (pp. 20-1)

さらに続けて、以下のようにも書いている。

わたしも、やる前から、なんの役にも立たないことは分かっていました。それじゃあ、哲学から離れて、世の中の役に立つような人生を歩めるかというと、これができないのです。ほかの職業を選んだとしても、たぶん、ずっと哲学が気になって気になって仕方がなく、中途半端な生き方をすることになったと思います。
 哲学科に入ってくる学生や、哲学者の愛読書などにはこうした性向をもっている人が多いわけでしょうね。哲学から抜け出せないことは、とても不幸なことなのですがね。わたし自身、後悔はしていませんが、哲学にとり憑かれなければ、もう少し楽な生き方ができたと思います。哲学は不治の病のようなものですよ。わたしのばあいは、哲学を自分の仕事としたために、哲学がもつ毒をよく理解することができました。
 だから、人に哲学をすすめることなど、麻薬をすすめるに等しいふるまいだと思っています 。(p. 21)

木田によれば、哲学は麻薬であり、病であり、毒をもっていて、哲学から抜け出せないことは、とても不幸なことなのである。人に哲学をすすめることは、麻薬をすすめるに等しい、と。哲学に興味を持ってくれる人を増やそうなどというのは、犯罪に等しい行為にうつるのだろうか。では、木田自身がやっていることは何なのか。彼は、哲学という病に取り憑かれる人もいるので、そういう人を楽に往生させるために入門書を書いている、と言う。これはまた極端な哲学に対する見方だと感じる。

ちなみに、続いて書かれた文章も興味を引かれた。

私の書く入門書は、同じような不幸を抱える人を読者に想定して書いています。同類相憐れむですね。だから「子どものための哲学」なんと、とんでもない話です。無垢な子どもに、わざわざ哲学の存在を教える必要はありません。(p.22)

 「子どものための哲学」という言葉を聞くと、永井均を想起する人は多いだろうし、当時話題になった本なのかもしれない。敵対心なのか、あるいは個人的な交友関係があって愛情たっぷりの皮肉を言っているのか、あるいは永井均とは全く関係ないのか。その関係に関心を持っているわけではないが、永井の哲学観と比較する、というのは面白いかもしれない。

さて、では、そこまでネガティブに言われた哲学とは何なのか。木谷よれば、哲学とは、「ある」とされるあらゆるもの、存在するもの全体がなんであり、どういうあり方をしているのかについての特定の考え方、だと規定される。そして、この考え方は西洋の文化圏のみで生まれたものである、と。

ここは面白い点だと思う。木田によれば、存在全体を規定しようとするためには、規定しようとする自分は、存在全体の内部にいながら、その全体を見渡せる特別な位置に立てなければならない。「存在するもの全体」を「自然」と呼ぶと、自分はそうした自然を超えた「超自然的な存在」であると考えるか、あるいは「超自然的存在」と何らかの関係にあると想定しないと、以上のような問いはそもそも立てられない。

この自然を超えたものとしての超自然的な原理として、イデア、神、理性、精神などといったものが想定されており、この原理によって自然は形を与えられ、制作される材料となる。自然は生きたものではなく、制作のための無機的な材料、物質に過ぎないものとなる。木田によれば、超自然的原理と物質的自然観の成立は連動しているのである。

プラトン以来、超自然的原理から自然を見る独特な思考様式が西洋の伝統となり、哲学と呼ばれて来た。このことに気づいたニーチェは、19C後半に、ヨーロッパ文化は行き詰まりを見せ、その原因がこの独特な思考様式にあると指摘したらしい。そして、西洋文化の根底にある思考法、つまり超自然的原理から自然を規定しようとする思考法が無効化したことを「神は死せり」と宣言した。この解釈では、もちろん、「神」とは超自然的原理を意味することになる。

さて、以上が木田が言っていることの簡単な要約だが、大局的には分かるような話だが、どうもすっと入ってこない。哲学史の勉強不足は、こういうときにはひっかかりを多く生む。まず、存在するもの全体を、なぜ「自然」と呼ぶことにするのかが分からない。ありとあらゆるものについて語るのであれば「概念」なんかはどう扱われるんだろうか。つまり、存在というものが何を意味しているのか、そんなにはっきりした共通見解が維持されてきたんだろうか。木田の言っていることは、入門用に乱暴にまとめたのか、はたまた私の勉強不足なだけで疑問点は存在しないのか、あるいは木田のような見解は、1つの哲学史観として存在しているのか。

ここから木田は、哲学の歴史的な開始点として、ソクラテスの話を始めるが、とにかくこの本はいろんな話題を行き来して読みにくいので、ここから『反哲学史』の方に読み替える。

 哲学はもともと「愛知」、知を愛するという意味だが(そこに至るまでにも来歴があるようだが)、ソクラテス以前は「知的好奇心が強い」「知識欲が旺盛な」という意味だったらしい。ところが、ソクラテスがはっきりと意味を変えてしまった。

ソクラテスによれば、愛するというとき、その愛の対象を自分のものにしようと欲求することを意味する。これはつまり、その愛の対象をまだ自分のものにしていないことを意味する。では、愛知者たる哲学者をこの原理に当てはめるとどうなるか。もちろん、知を自分のものにしたいのだが、まだ所有していない、ということになる。無知なんだけど、それは愚か者ということではなく、自分の無知を知っているという人のこと。ソクラテスにとって、哲学とは「無知の知」、自分の無知の自覚の上にたって知を愛し求めることである。

どうしてこんな考え方を持ち出したのか。ヘーゲルは『哲学史講義』で、愛酒家は酒に浸りきっている人間を指すのだから、愛知者は知を所有している人を指すのが自然だろう、とソクラテス批判を行っているらしい。木田によれば、ソクラテスソフィスト(当時の知識人たち)との論争に絶対に敗れない立場を確保しようとしたからだ、ということになる。ソクラテスは衆人環視の中で、ソフィストに、美や勇気についてあれこれ質問し、答えさせ、その答えの矛盾を指摘し、相手に無知を告白させればよい。確かに、プラトンの著作に出てくるソクラテスは、本当に嫌なやつだと思えるときがある。

当時の人もそう思っていたらしい。当時のアテナイ市民たちは、ソクラテスの論争の仕方を「エイローネイアー」と呼んでいたらしいが、これはironyへとつながる言葉で、皮肉を意味するようだ。このソクラテスアイロニーは、ヘーゲルキルケゴールの関心にもなったらしく、キルケゴールに至っては、学位論文のテーマにしたほどらしい。

皮肉は嘘と違って、発言内容が本心ではないことが相手に伝わらないと意味がない。嘘つきは、発言が嘘だとばれないように、場合によっては嘘を重ねなければならず、びくびくしなきゃいけないが、皮肉屋は、自分の皮肉発言には無責任でいられる。自由である、とも言える。キルケゴールは、この点を「皮肉においては、主体は否定的に自由である」と言っているらしい。どうしてもっと簡単な表現を使ってくれないのか…。

さて、皮肉を言われる相手というのは、得てして勘違いしているやつだ。よく知りもしないのに、知ったかぶりをしているやつに「信じられないくらい物知りだね」と言うような感じ。皮肉を言われる側は、あまりに誇張された皮肉表現により、相手の内心をしる(この場合は、自分がよくものも知らないのに知ったかぶりしてんじゃねえよ、みたいな)。すると、皮肉を言われた方は、自分が外面で見せている姿と、本当の実力的な内面の相違に気づく。実はよくものを知らない、という自分の本質(!)に立ち返らさせれる。皮肉は教育効果があるのだ。ニーチェもそう言っているらしく、というか、そういう教育的な信頼関係がない場合は、皮肉はただの無礼で、低俗な気取りだ、とも言っているようだ(『人間的な、あまりに人間的な』で)。

さて、ソクラテスアイロニーに戻ると、そこには謎があり、もしもソクラテスがアイロニストで、無知を偽装していたのであれば、彼は実は真の知を所有していたことになる。しかし、果たして本当にそんなものを持っていたのか。少なくともプラトン初期の対話篇では、ソクラテスは何一つ肯定的な結論を出さない。どうも彼の無知の告白は、額面通りに受け取らなければならないのではないか。

そこで、木田は、ソクラテスアイロニーは、既成の知識や実在をかたっぱしから否定して、その代案を持ち出そうとせず、一切を否定し去ろうとする無限否定性ともいうべきものであった、と言う。まあ、確かに、これが答えだ、というものが提案されたら、自分が出したものでも、相手が出したものでも構わず、全部否定するのだから、ね。これを「無限」否定性、と仰々しく名づけるのにも理由があるのだろうけど…。

以上、木田の反哲学の導入部分を見てきた。もちろん、ここでは存在全体みたいな話になっていないし、目次を見てみると、ハイデガーが1つの終着点みたいになっている気がする。そこまで進んで、初めてすっと理解できることもあるんだろう。

ただ、とりあえずここまで読んできた限り、哲学とは、①麻薬で毒でどうしようもないもので、②出発点は「無知」の自覚の上に「知」を愛し求める運動にある、という木田の見解?みたいなものは見て取れた。それともちろん、③超自然的原理に基づき存在(自然)を規定しようとする考え方、である。この点に気づいた人々は、ある種の「反哲学」の系譜に属する。なじみが全くない話が多くて、そこは勉強になった。気が向いたら『反哲学史』の続きは読んでみたい気もする。

哲学とは何か――麻生博之氏の導入を読む

麻生博之、城戸淳『哲学の問題群――もういちど考えてみること――』(ナカニシヤ出版、2006)は、テーマごとに哲学の諸問題を紹介しており、やはり現代哲学のすぐれた入門書と言える。この本の「はじめに」で著者の1人、麻生氏が哲学とは何かを「哲学的に考えるとということ」という副題のもとに論説している。

本書のタイトルからも分かるように、麻生氏の基本的な姿勢は、哲学とは「思考の営み」であるということだ。ウィトゲンシュタインの『論考』から「哲学は学説ではなく、活動である」という言葉を引いて、哲学は知を愛し求める思考の活動である点が強調される。

しかし、あらゆる知的活動は思考を伴う。哲学を特徴付けるものは何か。哲学は、日常からかけ離れたものでも、他の学問と断絶したものでもない点を断りつつ、3つのポイントを挙げている。

1つ目は、思考の徹底性である。当たり前のこととして問われない物事に対して、より原理的で、より包括的なあり方を知ろうとする。つまり、前提を問い直すということである。

2つ目は、とらわれから自由でなければならない点だ。通常の学問は、一定程度の探求の前提を共有する。何が存在して、どのような手続きで進めて、といったことが共有されないと、諸学問は成り立たない。ところが、哲学は、この共有を強制しないどころか、たえず「哲学的常識」に疑いをかけ、問い直すことを特徴とする。「無知の知」というソクラテスが唱えたとする観点が、常に哲学の活動を支えている。

3つ目は、生の現実を見つめる思考の営みである、ということだ。「驚き」が哲学の出発点にある、といわれるように、あるときふと、自分が前提にしていた生の現実に対する見方に「とらわれ」があることに気づき、そこから自由になり、新たに考え直していくプロセス、これが哲学の実践的意義である。メルロ=ポンティが「真の哲学とは、世界を見ることを学びなおすことである」(『知覚の現象学』※孫引きです)と述べたらしいが、具体的な生のただ中にこそ、哲学の営みがある。

ここには、哲学の有用性という視点も、科学との違い、などというものもない。哲学の実践を見つめ、端的にその特徴を挙げており、非常にポジティブな哲学の捉え方に感じた。もちろん、ただ1人で思考を徹底することは、ドグマに陥る危険性がある。それゆえに、哲学は分野を問わず対話を続けることが、もう一つの特徴としてあげられるのではないかと思う。それが先人の知恵の結晶としての哲学書でもかまわない。哲学にもさまざまな下位分類があり、時に激しく対立し合うこともある(たとえば、一時期の分析哲学vs.大陸哲学など)もあるが、この特徴付けは、哲学を好む人々が共通して受け入れられるものではないか、と思った。

哲学とは何か――ゲルハルト・エルンスト『哲学のきほん 七日間の特別講義』を読んで

本書は、対話形式の哲学入門書である。この七日間の特別講義では、各曜日にそれぞれ異なるテーマについて、哲学者と読者が対話を行う。最終日直前の土曜日のテーマが「哲学とは何か?」であった。ここだけしか読んでないけど、わかりやすく、かつある程度網羅的に書かれていて、かつ、背景知識の説明を入れる余地があり、教師が解説を加えやすそうな気がする。(分析)哲学入門のテキストとして使えるかも。

話題は多岐にわたるが、これまでに扱ってきた中で、私が個人的に考えたいのは、哲学と科学の関係である。自然科学の知識によって成立しているこの時代に、哲学を学ぶ意義はどこにあるのか。哲学が独自に果たす役割とは何か。

本書では、まず哲学と科学の協同の可能性が指摘される。哲学は概念を明らかにし、科学者は実験により概念を明らかにする。一見同じことをしているようだが、科学者は、実験に先立って、ある規定された概念を用いて探求を行う。その実験の基礎にある概念が何を意味しているのか、それはどのような概念の体系を生み出しているのか。こうしたことは、分析的・必然的・アプリオリな真理を探究する哲学者の得意とするところである。哲学者は概念を明らかにし、科学者は実験を行い、両者が協力して科学の営みを支える、というイメージがここに生じる。

このイメージは私には理解しやすい。たとえば神経科学者が「自由意志」とは何かを明らかにした、と発表するとき、そこで意味される「自由意志」とは何か。それは私たちが日常理解しているものと同じものなのか。日常的な概念の持つ豊かさを実験によって完全に確かめる、というのは考えにくい。概念分析の段階で実験に進めなくなるからだ。よって、科学者は操作的に定義する。たとえば「……を満たせば、自由意志を持っているといえる」といった形で。この操作的な定義が適切かどうか、哲学者の議論は、探求の指針を見いだしたり、概念的な混乱を解きほぐす助けになるかもしれない。

さて、上のイメージにあるのは、「概念の解明」としての哲学である。しかし、哲学が行っているのはこれだけではない。概念を作り上げることも行っている。

概念を作り上げる、ということは理解しやすい。たとえば、クジラが魚ではない、ということがここでは例に挙げられている。日常的に考える限り、クジラは魚である。しかし、クジラは魚ではない。なせなら、生物学者による魚の分類から外れるからだ。では、魚の分類はどのように行われたのか。明らかに初めのうちは、海辺で日常生活をする人々が、生活の都合で決めた分類である。ここには経験的知識の出番はまだない。しかし、生物学が誕生し、さまざまな手法で知識を積み重ねることで、魚に分類されている生物が持つ特徴が明らかになり、この特徴に照らして考えると、クジラは魚とはあまりに異なっていることがわかる。そこで、クジラは魚ではない、ということになった。ここでは、魚についての経験的知識が利用されることで、魚の定義が改訂されてきた歴史がある。

このように経験的知識を利用することで、私たちがなんとなく利用してきた概念の輪郭がより明確になる。これが概念を作り上げる、ということであり、概念形成と呼ばれるものだ。

「時間」とは何か、という問いに対して、物理学は信じられないほど多くのことを明らかにしてきた。物理学が解明してきた時間概念は、非専門家には容易に理解しえない複雑で高度な規定が与えられていることだろう。しかし、それだけが「時間」の全貌とは言えないだろう。私たちが古代から問い続け、考えてきた「時間」概念、時間の謎との関係も含めた上で、物理学からの知見という新たな観点も踏まえた概念体系こそが、現代の時代における時間概念の探求になるだろう。

ここに見いだせるのは、「謎」に立ち向かい、「体系化」を目指す哲学者のイメージである。時間とは、物理学の視点からはAというように説明されるかもしれず、脳神経科学からはBというように説明されるかもしれず、心理学からはCというように説明されるかもしれない。哲学者が問い続けた謎は、このどれかによって解明されるかもしれないし、どれからも解明されないかもしれない。AもBもCにも目配せしながら、あるいは時に対立しながら、探求の対象とする概念が生じさせる謎と対峙し、解明を行い、新たに作り上げていく。哲学は、科学の基礎にあたる概念整理だけでなく、科学者と協同して、謎の解明にあたり、それを通じて概念の体系化された全体像を示そうとしているかもしれない。

哲学が行うのは、世界とは何か、そして人間とは何かを明らかにする営みである。それは、自然科学であろうと、数学であろうと、文学であろうと、この探究に関わるすべての人の根源にある試みと言える。大げさな言い方かもしれないが、あらゆる知的探求の根源には、哲学があると言えるかもしれない。また、私たちが知りうる限界とは何か、神は存在するか、などの自然科学の外側にあるような謎を問い続け、あるいは矛盾とは何か、原因とは何か、いった自然科学の根底にある概念の謎を問い続ける試みが、問われる時代のさまざまな知見や制約を受け入れながら展開されていく限り、哲学は独自性をもった根源的な知的探求として生き続けると思う。

ということで、本書を読み限りで、哲学を特徴付けるキーワードとして、「概念」「体系化」そして「謎」が挙げられる。これらはいずれも哲学の専売特許ではないが、まさにこの問題を主たる探求の対象として研究し続けるのは、哲学者以外には存在しない。

自然科学との関係では、どのようなことが言えるだろうか。哲学者は、自然科学の基礎にある概念を解明し、その限界とは何かを問い、そして自然科学による解明が世界の理解においてどのように位置づけられるのか、という活動の本性自体を問う。自明と思われるもの、自明なものとして進めたい概念に謎を見いだし、自然科学の解明が世界を理解しようとする試みのすべてではない可能性を指摘する。一筋縄ではいかず、時に自然科学者に毛嫌いされながらも、基盤にある問題をしつこく問い返す、こうした厄介な役回りこそが、哲学がもつ自然科学との関係性と言えないだろうか。

哲学とは何か――トマス・ネーゲルを参考にしてみる

トマス・ネーゲルの有名な入門書『哲学ってどんなこと?―とっても短い哲学入門』(昭和堂、1993)は、基本的には個別の哲学的問題を取り扱うものだが、「1 はじめに」では、哲学の基本的な性質についてコメントしている。基本的にはローと同じ構成の本である。

ネーゲルによれば、14歳くらいで多くの人は哲学的な問題を自分で考え始める。たとえば、何が本当に存在しているか、私たちは何かを知ることができるのか、人生には何か意味があるのか、死は終わりなのか、などなど。私は中学生ぐらいのときに、どうせ死ぬのに生きる意味があるのか、などと考えていたけれど、同じような話だと思う。確かに、これくらいのときは、妙な観念的なことを考えたくなる年頃なのかもしれない。

ネーゲルが言いたいのは、もちろんそんな発達段階の話ではなく、こうした現象が共通してみられるのは、哲学が、私たちと世界との関係から直接生まれるものである、ということだ。決して、過去の著作を読んで、過去の哲学者の見解を学んでいく中で、哲学的な問題を知り、その解決の技法を知る、ということではない。ここに、哲学の基本的な性質として、私たちの多くが直接的に問題を考えるようになる、というある種の根源性が示唆される。

さらに、ローと同じように、科学あるいは数学を持ち出して、哲学を特徴付ける。哲学は、科学と違い、実験や観察ではなく、思考だけを頼りにする。数学と違って、形式的な証明方法はない。では、どのようにして哲学は行われるのか。彼は「問いを立て、議論し、考えを吟味し、それらに対して加えられるかもしれない反論を思い描き、私たちの概念は本当に有効なのかと考えてみること」(p. 5) が哲学の方法だと述べる。

ここに、哲学の基本的な性質として、哲学は思考を頼りにし、議論をベースとする活動であることが示される。ここで注目したいのは「議論」や「反論」という言葉だ。たとえ仮に哲学者が1人だけで思索をしたとしても、そこにはある種、仮想反論者を想定した「対話」があるような気がする。哲学は本来的に対話をベースとして、議論を行うことを中核に据えた活動であると言えるのかもしれない。

さらに、哲学的な問いの対象について、哲学は非常に一般的で、普通はとりたてて考えることがないような観念を問い直す、と述べている。これは、上に述べた哲学の根源性を言い直したようなものかもしれない。たとえ知識がなくても疑問を投げかけ、考えられるような問題、それは、私たちの日常に身近な問題にならざるをえない。たとえば、時間、数、知識、言語、正しさなど、こうした問題を問い直すことに、哲学の特徴がある。

では、なぜこうしたことをわざわざ問い直すのか。こんなことを考え直さなくても、十分不自由なく私たちは生きていける。ここでネーゲルは、世界や私たち自身について理解をちょっぴり深めることを、目的に据える。

以上、まとめてみよう。ネーゲルによれば、哲学は、目的として世界や自分たちの理解を少し深めるために、対話的な手法をベースに、身近で普段疑わないような観念を問い直してみる活動、ということになる。

自然科学だって、世界や私たちについての理解を深めるために行われている活動だ。それゆえ、哲学の目的の部分は、哲学を固有に特徴付けるものにはならないと私は思う。身近で普段は疑わない問いを問い直すこと、というのも、哲学に固有な特徴付けにはならない気がする。自然科学も、私たちの身近な問題、時間や数、言語とは何かを明らかにしようとするし、今では道徳的な問題まで手を伸ばしている。そうすると、哲学固有の性質は、思考だけを使う、というある種の「制限」になってしまうのだろうか。

私がここで気になるのは、子どもでも考えられる問いと、観念(概念と置換可能ではないかと思う)に関わる活動である、というところだ。あまり考えが及ばないが、この観点に少しこだわって、さらに哲学とは何かについて、他の見解も見ていきたいと思う。